家族のすれ違いは、言語ではなく「価値観のOSの違い」だった──家族でも職場でも起こる“対話の限界”について
- yutaromaru111
- 11月16日
- 読了時間: 4分
先日、弟がX(旧Twitter)にこんな投稿をしていた。
ワイ「死にたい。なんで産んだの?」
親父「死んではいけません。モーゼの十戒で禁じられてます」
ワイ「」
親父「モーゼの十戒には、父母を敬えという教えもあります」
ワイ「」
お父さんありがとう😄 しね😄
これを見た瞬間、胸がギュッと痛くなった。
弟は鬱を抱え、家族とのやり取りで深く傷ついている。
父は父で、自分が正しいと思う価値観のまま、善意で返している。
表面的には日本語のやり取りなのに、二人の会話はまるで噛み合っていないように見えた。
そして、この出来事が僕に大きな気づきをくれた。
同じ日本語でも、“価値観のOS”が違えば対話は成立しない
僕の父は、若い頃から統一教会に深く関わってきた。
宗教の教え、昭和の価値観、育った家庭環境……そのすべてが父の価値観を形づくっている。
善悪
戒律
あるべき姿
「こうすべきだ」
これが父の“OS”だ。
一方、弟は鬱からくる無力感、家庭環境への怒り、理解されなかった悲しみを抱えている。
「自分の苦しみを分かってほしい」
「寄り添ってほしい」
「肯定してほしい」
これが弟の“OS”になっている。
つまり——
同じ日本語を使っていても、インストールされているOSが違いすぎると、会話そのものが成立しない。

弟の言葉の裏には、“ただ愛してほしい”があったのかもしれない
弟のツイートを見た瞬間、切なくなった。
「死にたい」「なんで産んだの?」という言葉の裏には、僕はこういう願いが隠れていると思った。
ただ、無償の愛を感じたかったんじゃないか?
苦しさのピークのときに家族へ発する言葉は、「救ってほしい」というサインであることが多い。
でも、返ってきたのは“教え”だった。
十戒
戒律
親を敬え
弟が欲しかった言葉はきっと違う。
「生まれてきてくれてありがとう」「お前が苦しんでるなら、理由なんてどうでもいい」「お父さんはお前を愛している」
そういう言葉だったのかもしれない。
届いてほしかった言葉と、届いた言葉がまったく違うとき、人は深い絶望に落ちる。
その瞬間の弟の気持ちを思うと、心が痛んだ。
家族の対話が難しい理由:距離を置けないから
会社なら、価値観が合わない相手がいても部署異動や会社を辞める、距離を置くという手段が今の世の中ならできる。
一方で、家族は距離を置くのが難しい。
逃げ場がないから、すれ違いがより深刻化しやすい。
無理に歩み寄る
歩み寄れず傷つく
さらに衝突する
この悪循環は、家族だからこそ起きる。

価値観の衝突は、“歩み寄り”でしか解決できない
父と弟の価値観は根本から違いすぎる。どちらが悪いわけでもなく、どちらも必死に生きているだけ。
これを解決するためには、両方の歩み寄りが必要だと感じる。
弟には、まず鬱の状態が少しでもよくなるように、回復していく時間が必要だと思うし、
父親は、長年培った統一教会の価値観から、アップデートしてもらう必要がある。
なかなかに険しい道だ。
つまり、OSの“核”が違いすぎると、歩み寄りは現実的に不可能になる。と言ってもいい。
価値観の衝突には、どう頑張っても越えられない領域がある。
この事実を受け入れることは、家族関係でも、ビジネスでも、とても大切だ。
今回の出来事が、父としての僕を変えた
弟の件を通して、僕は自分自身に問いかけた。
自分の子どもたちには、無償の愛を伝え続けられているか?期待や正しさを押しつけて、条件付きの愛になっていないか?
子育ての中で一番大事なのは、正論でも、成果でも、しつけでもなくて、
「あなたはあなたのままで愛されている」という安心だ。
弟と父のすれ違いは、僕にとって「父親としてどう生きるか」を深く考える出来事だった。

価値観のOSを知ることは、家族も職場も救う
今回の気づきは、家族に限った話ではない。
上司と部下の衝突
経営者と若手のギャップ
部署間コミュニケーション
BNIチーム内でのすれ違い
これらはすべて、
“OSが違う”という構造から生まれている。
企業なら異動という手段があるが、家族にはそれがない。
だからこそ、価値観のOSの違いを理解することが大切になる。

まとめ:対話は“言語”ではなく“価値観”を見るところから始まる
父と弟の出来事を通して僕が感じたのはこれだ。
すれ違いは誰かのせいではない
OSの違いが衝突を生む
家族でも距離が必要なことがある
歩み寄れない価値観もある
無償の愛はすれ違いを乗り越える力になる
家族でも、職場でも、人間関係に悩むすべての人に、この視点が少しでも役に立てば嬉しいです。




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