「パパ友」に物足りなさを感じるのはなぜ?仕事も育児も本気で語れる"同志"に出会えた話【共働き・2児のパパ体験談】
更新日:8月27日
保育園の送迎で顔を合わせるパパに、思いきって話しかけてみた。「最近、忙しいですか?」——返ってきたのは「まあ、なんとかやってます(笑)」。悪い人じゃない。むしろ感じのいい人だ。それなのに、この物足りなさは何なのだろう。仕事のこと、育児のこと、夫婦のこと。本当は話したいことがいくつもあるのに、そこには踏み込めない。共働きで4歳と2歳を育てる僕が、「パパ友」とは違う"同志"と呼べる存在に出会って気づいたことを書きます。
「パパ友」との会話には、どこか越えられない壁がある
保育園の駐車場で交わすのは、いつも当たり障りのない世間話だ。天気のこと、行事のこと、子どもの成長のこと。それはそれで心地いい。でも、こちらが本当に聞きたいのは、もっと奥のことだったりする。仕事と育児をどう両立させているのか。夫婦でどんなふうに折り合いをつけているのか。しんどい夜をどうやり過ごしているのか。子どもを介したつながりだからこそ、その一歩手前で会話が止まってしまう。悪気があるわけでもなく、なんとなくそういう空気があるのだ。
「同じ悩み」より「同じ志」を持つ人と話したかった
別の日、仕事の関係で異業種交流の場に参加した。司法書士のパパ、広告会社で働くパパ、保育園を経営するパパ。職業も年齢もバラバラの父親たちが、子育てと仕事の話を2時間近く語り合った。「朝のルーティンを崩さないだけで、子どもの情緒が全然違う」「妻がいちばんしんどいのは家事の量じゃなく"孤独"だと気づいてから変わった」「社員を20人抱えても、朝と夜ご飯は家族と食べると決めている」。初対面なのに、こんなに本音で話せるのかと驚いた。これは「パパ友」とは違う。同じ方向を向いて走る人たち——言葉にするなら"同志"だと思った。
「正解」はなくても「事例」は力になる
我が家の場合は、朝と夜は家族全員で食卓を囲む。それだけは崩さない。妻が苦手な洗い物は極力自分がやり、おもちゃが散らかったままだと妻の気持ちが荒れるから、そこにはアンテナを張る。正解を語りたいわけじゃない。ただ、みんなに共通していたのは、家族にちゃんと向き合おうとしていることだった。具体的な事例を共有すると、参考になるだけでなく「自分はひとりじゃなかった」という感覚が生まれる。ここがいちばん大事なところだと思う。
「それでいい」と言ってもらえる場所が、孤独を和らげる
仕事に全力を注ぎたい。同時に、家族にも丁寧でありたい。両方をやろうとすると、必ずしんどい瞬間が来る。締め切りの前日に子どもが熱を出す。大事な商談の日に保育園から呼び出しがかかる。疲れ果てて帰ってきたのに「パパ、遊んで」と引っ張られる。そのたびに、仕事に集中できなかった、家族に向き合えなかったと自分を責めてしまう。でも、あの夜に聞いた「どちらにもエネルギーを使うから大変なときもある。だけど、それでもやる」という言葉が、ずっと頭に残っている。諦めたわけでも割り切ったわけでもなく、"それでもやる"という意志を持つ人がこんなにいる。それを知るだけで、孤独な戦いに少し光が差した。
「どっちかを諦めた人」にはなりたくない
仕事に本気でいると「育児を犠牲にしている」と思われることがある。育児に向き合っていると「仕事が中途半端」と見られることがある。どちらでもない立場は、どこか宙に浮いているようで落ち着かない。でも、あの夜に話した人たちは、誰もそこで妥協していなかった。社員を抱えながらも、朝と夕ご飯は家族と食べる。「折り合いをつけた人」ではなく「どちらにも本気の人」だった。仕事に真剣な姿も、家族を大切にする姿も、どちらも輝いていていい。そこに性別は関係ない。パパだから、ママだからではなく、同じ志を持った人間として互いにリスペクトし合える関係が"同志"なのだと思う。
まとめ|挨拶だけじゃ足りない夜に、"同志"の存在が効く
子どもたちが寝たあとの静かなリビングで、あの夜のことをぼんやり思い返した。「仕事も家族も、どっちも大切にしたい」なんて、職場では言いにくいし、送迎では言い出せない。でも、同じ想いを持つ人とその話をすると、自分が肯定されるような気がする。それは情報の交換ではなく、もっと根っこのところでつながる感覚だ。パパ友・ママ友が「子どもを介した知り合い」なら、同志は「共に人生を歩むパートナー」かもしれない。あなたの近くに、同志と呼べる人はいますか。そしてあなた自身が、誰かにとってのそういう存在になれているでしょうか。
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